吉見百穴 ~その壱~  2016.7.10

最近仕事が激務過ぎて…なかなか投稿できませんでした。遊びに来ていただいた方、大変申し訳ございません。仕事が激務の為か休日にお出掛けをするのも久しぶりでした。
地元埼玉県が誇る?…「吉見百穴」に行ってきました。
私も小学生の頃に訪れた以来、数十年…娘も小学生三年生だし、ワクワク冒険しながら歴史に触れることや「勾玉作り」も体験できることから今回の候補になりました。★吉見百穴(よしみひゃくあな)
「百穴」の名が文献にみられるのは今から約200年前からで、江戸時代の中頃には「百穴」の呼び名も生まれ、不思議な穴として興味をもたれていたと思われる。
吉見百穴が科学的に検討されだしたのは明治になってからで、内外の著名な考古学者によって調査が行われ、横穴の性格をめぐってさまざまな意見が発表された。
明治20年、坪井正五郎氏(当時東京大学院生)によって大発掘が行われ、人骨・玉類・金属器・土器類等が出土した。坪井氏はこの横穴を土蜘蛛人(コロボックル人)の住居として作られたもので、のちに墓穴として利用されたものであると発表した。
しかし、大正時代になると、考古学の発達によって、各地で横穴の発見、発掘がなされ、出土品や横穴の構造から、この横穴は、古墳時代の後期に死者を埋葬する墓穴として作られたものであることが明らかにされ「住所説」は、つがえされることとなった。そして、大正12年には、「吉見百穴」はわが国の代表的な横穴郡として、国の史跡に指定された。
戦時中、横穴群のある岩山に地下工場の建設が行われ数十基の横穴が壊されたが、戦後、吉見百穴保存会が結成されて、積極的な保存管理が行われ、昭和36年には吉見村が管理者となって引き続き管理が行われた。
また、最低部の二つの横穴に、底や壁からかすかな緑色の光を発しているヒカリゴケがある。このコケは、山地に多く、平野にあるのは、植物分布上、きわめて貴重とされ国指定天然記念物となっている。★横穴に葬られた人々古墳時代の村人たちの中で横穴を造ってここに葬られた人は一部の人に限られており、横穴を掘るには人手が必要であり、費用がかかるので、わずかの土地を耕してかろうじて毎日を暮らしていた多くの農民は、とうてい横穴を造る力は持っていなかったに違いありません。
村人の中で数人の働き手を十数日も横穴を掘る労働に使役させることのできた一部の人々から自ら奥津城として横穴をつくらせ、その家族と共にこの中に葬られたものである。
横穴には棺台が二つも、三つもあることから一人の墓ではなく有力者の家族を埋葬する墓であったと考えられています。
この日は、埼玉県地方では気温33度で熱中症になりそうでしたが、百穴内部は15度と冷えていて自然のクーラー室内は快適でした。逆に冬は暖かいのでしょうか。
次回は「吉見埋蔵文化センター」の博物館見学と体験学習「勾玉作り」を報告します。★ここまで読んでいただきありがとうございます!数あるブログの中から…「NAHKI Blog」に遊びに来ていただき感謝!貴方の日常の貴重な時間をいただき感激↓ブログランキングに参加しています。
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