土方歳三資料館

土方歳三資料館(日野市石田)多摩の日野市石田には今でも「歳(とし)さん」(彼は若い時地元でそう呼ばれていた)の育った家がある(生家ではない)。歳さんは生涯独身だったので、彼の直系はいないが、実兄の家系が健在でうれしいことに歳さんの資料館を開いてくれている。ただし土方家の私的なものなので開館日は毎月第三日曜のみ。だから月に一度の開館日には、門前列をなします。因みにその情報がなかったので閉館していました。
資料館と言っても、一室の狭い木造家屋で、家の好意による開館で、一度に30名ずつの入れ替え入場.入り口には歳さんが武士になる誓いに植えたという竹が今でも青々と生い茂り、あまり精巧でないが胸像もある。ガラス越しに歳さんの着けた鎖帷子(かたびら)の頭巾・斬った相手が数知れない名刀和泉守兼定・直筆の手紙・俳号を「豊玉」と名乗った句集などが展示してある。歳さん自身が売りに歩いた実家の製薬「石田散薬」関係の道具も置いてある。歳さん関係の見たい物がすべて間近で見れるわけだ。
土方歳三の墓(日野市)土方歳三は、天保六年(1835年)、土方家の四男として生まれた。青年時代は家業(農業、薬の製造・販売)を手伝いながら、近藤周助について天然理心流を学び、近藤勇・沖田総司らと知り合った。文久三年(1863年)、幕府は将軍家茂の上洛の際、京都における警護の浪士を募集し、浪士組に加わり、新選組を結成した。近藤勇が局長、土方歳三が副長となり、京都の治安維持に努めた。近藤の思想は「天皇から委任を受けた幕府が、天皇と国を守り政治を行う」という尊王佐幕です。 そして新選組は尊攘思想の者を弾圧していたのではなく、尊攘を掲げて殺人や恐喝などを為す犯罪者やテロリストの取り締まりを行っていたのです。
その後、慶応三年(1867年)10月の大政奉還により、慶応四年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、土方らも参戦したが敗れた。以後…勝沼・宇都宮・会津と転戦し、仙台で榎本武揚の率いる幕府艦隊に合流した。そして、北海道へ渡り箱館政府設立に参加し、土方は陸軍奉行並に選任された。明治二年(1869年)、官軍の反撃が始まった。土方は弁天砲台に孤立した味方の救出するために、箱館市内に突入したが、午前10時ころ腹部に銃弾を受けて戦死した。5月11日没、35歳。尚、土方歳三の墓は石田寺(せきでんじ)にあるが、いわゆる「引き墓」であり、ここに埋葬されたわけではない。
土方歳三 最期の一日過去に綴った「土方歳三」のブログにリンクしています。私がもうひとつのお墓、函館の地に訪れた時の記事になります。【リンクURL】★土方歳三資料館土方歳三資料館のホームページです。★土方歳三資料館日記 (Toshizo Hijikata Museum Blog)土方家の子孫の方がamebloで綴っているブログです。「シャキーーーン」と応援よろしくお願いします!
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