三国志展 2019.9.7

2006年に、呉の皇族級の墓が発掘され…
2008年には長らく所在が不明だった曹操の墓が発見されました‼️
2012年には、蜀で搖銭樹の台座が発掘された。
これまで厚いベールに包まれてきた新たな三国志像を垣間見たいと思い東京国立博物館に行ってきました。
184年の「黄巾の乱」から280年の西晋王朝統一までの約100年間の群雄割拠に始まり魏・呉・蜀の三国時代は、芸能や文化、今に至ってはゲームにまで影響を及ぼしています。

★関羽像

今からおよそ1800年前、後漢王朝の衰退に端を発した三国時代は、幾多の武将が歴史性を帯びた伝説となって親しまれてきた。

関羽のように尊崇されて神となった武将もいた。

横浜の関廟亭は関羽の商業の神様として崇め奉られたものになります。

★趙雲像

長坂坡の戦いで曹操軍に追撃された劉備軍の中で、戦場を駆け巡り、劉備の息子・阿斗(劉禅)を預かり敵兵を蹴散らして危機を脱した。

『三国志演義』にける趙雲最大の見せ場である。

★曹操

曹操は155年、宦官であった曹騰の養子・曹嵩の息子として生を受けます。

20歳になると郎(中国の官位)になり、洛陽北部尉に着任。

208年の天下分け目の『赤壁の戦い』では…

劉表の下に身を置き、早々から逃走していた劉備に攻め入ろうと長江を下っていたのですが、孫権軍の策略にかかり、軍船は火攻め(連環の計)に遭います。

疫病の被害とも重なり撤退することになり、後の三国時代に大きな影響を与えています。

その後、魏公と名乗り戦果をあげますが、220年に病のために死去。

★劉備

劉備は、166年に生まれ、曹操よりも11歳若い。

後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。

字は玄徳。 黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。

赤壁の戦い後、劉備は荊州(けいしゅう)牧となり、荊州の支配権を奪って事実上の独立を果たし、建安26年(221)、蜀の群臣らに推され蜀漢の皇帝に即位。

ところがこの年の6月、劉備は呉の裏切りによって関羽を失ってしまい、そのため劉備は、趙雲など重臣たちの猛反対を押し切って呉に対する復讐「夷陵(いりょう)の戦い」を敢行する。

当初は呉軍を追い詰めていた劉備軍ですが、陸遜の火計にはまり退路を断たれるなど苦境に陥ります。それでもなんとか白帝城に逃げ込むと、永安宮を建設し生涯そこに暮らしたそうです。後に孫権から和睦の要請があった際は、これを受け入れています。

諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。

その後の、魏・呉・蜀漢による三国鼎立の時代を生じさせた。

★孫権

孫権は、182年に生まれ、三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。 

兄に孫策、妹に孫夫人(孫尚香)。子に孫登や孫魯班(大虎)など。

呉の礎を築いた父孫堅、勇猛を恐れられた兄孫策を相次いで亡くし、19歳で孫氏軍閥の当主となる。父や兄から引き継いだ家臣団をまとめあげると共に、積極的な人材登用を行った。

208年、曹操軍が大軍を率いて南下すると、降伏か開戦かの決断を迫られる。周瑜・魯粛の言を聞き、開戦を決断。周瑜は赤壁の戦いにて曹操軍を追い返した。

215年の合肥の戦いでは孫権率いる大軍勢が張遼・楽進・李典を大将とする少数の曹操軍に大敗を喫したことで知られている。

219年、荊州を任されていた関羽が軍を率いて北上した隙をついて荊州を奪い、退路を失った関羽を捕らえて処刑した。

222年、復讐に燃える劉備軍を夷陵の戦いで大破し、荊州の領有を確実にした。

これによって、三国の領域が確定した。

蜀を破って魏と同盟する必要のなくなった孫権は、黄武という独自の元号を使い始めた。この年が呉の建国の年とされる。劉備が死去すると、翌223年、蜀漢と和睦し、再び同盟した。

以後、呉は蜀漢と結んで魏に対抗し、諸葛亮の北伐など蜀漢の動きに呼応してたびたび魏へ侵攻した。

晩年は、孫登の急死で後継者問題が発生。陸遜を憤死させるなど老害が目立った(二宮事件(二宮の変))。

251年に死去。享年71歳。呉は280年に滅亡した。

★獅子

後漢時代2世紀

後漢の都・洛陽で劉漢という人により制作されたものです。

赤壁の戦いでの怒号の矢を再現している。

この下は、休憩するための椅子があるのでしばしの休憩…

これは、展示品とは違うが…再現性に圧巻する。

光栄から出展されていた張飛の蛇矛。

その長さ・大きさには驚きである。

★諸葛亮孔明

181年に誕生していて、劉備よりも15歳若い。

徐州の琅邪(ろうや)郡、陽都(ようと)県の出身でした。

前漢の時代に司隷校尉(朝廷の監察官)を務めた諸葛豊の子孫です。

諸葛氏の祖は、秦の打倒を目指した「陳勝・呉広の乱」の参加者で、その功績によって、子孫が漢王朝から取り立てられていました。

父の諸葛珪は、後漢の末期に太山郡の丞(副長官)になっていましたが、諸葛亮が幼い頃に亡くなっています。

このため諸葛亮は、叔父の諸葛玄の元で、兄の諸葛瑾や、弟の諸葛均とともに育てられました。


劉備(玄徳)や諸葛亮(孔明)を主役に据える「三国志演義」としては、三国志で最もドラマチックな赤壁の戦いで、劉備(玄徳)や諸葛亮(孔明)らが活躍しないわけにはいきません。そのためほぼ無理やり諸葛亮(孔明)を話の中心に持ってきます。

実際は曹操と、孫堅軍を統率する周瑜の駆け引きがメインなのでしょうが、ここに諸葛亮(孔明)と周瑜の知恵比べが盛り込まれます。当然のように諸葛亮(孔明)の方が周瑜よりも格上という描かれ方になりますので、周瑜の活躍や功績は薄れていきます。

ちなみに周瑜が諸葛亮(孔明)に十万本の矢を用意するという難題を突きつけた際に、霧に紛れて船団を曹操陣営に近づけ、矢を放たせて十万本の矢を得るというエピソードがありますが、史実では孫権が、船に突き刺さった矢によってバランスを失ったのを回避するために、反対側を向いて矢を受けたという記録があります。

三国志演義ではこれを諸葛亮(孔明)の策に脚色し、周瑜を驚かすことに繋げています。曹操に対して真っ向から立ち向かう周瑜も、諸葛亮(孔明)の器量には恐怖を感じるという演出です。

234年8月23日は、三国志でも有名な人物の一人・諸葛亮が亡くなった日です。


建安25年(220年)、1月。

中原を駆け巡った一代の英雄・曹操は、ついに最期の時を迎えんとしておりました。

「非常の人、超世の傑」と評された彼は、思えば戦いに明け暮れた半生。

粉骨砕身して天下を統一という志を果たせず逝くことは、心残り以外の何ものでもありません。

「天下はまだ乱れているのだから、葬儀はしきたり通りにはできない。埋葬が終わったら服喪をやめろ。軍団を統率している担当者は部署を離れるなよ。官吏はそれぞれ仕事をしろ。遺体を包むのは平服でよい。金銀財宝を墓の中にはおさめるな」

2月、実に彼らしい合理的な遺言を残し、曹操の墓となる「高陵」に葬られたのでした。

そして2008年。

曹操の死からおよそ1800年を目前にして、その墓がついに発見されたのです!

歩出夏門行

ふしぎな亀は長生きするといっても
いつかは終わる時が来る
空にのぼる蛇は霧に乗るといっても
やがては土くれになってしまう
老いた馬は厩で立てなくなっても
その志ははるか万里を駆ける
いさましい男はおいぼれになっても
いさましい心が消えることはない
長くも短くもなる命のさだめは
ただ天だけが決めるものではないのだから
身も心も安らかに養おう
きっと長生きできるさ
ああ幸せだな
この気持ちを歌にするよ

曹操

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