春休みに京都の地を訪れたので画像とともに、今回は京都伏見は「寺田屋」を報告します。
★1862年5月21日の寺田屋騒動文久九年(1862)5月、尊王攘夷派の先鋒であった薩摩藩士九名が殺傷されるという明治維新史上有名な寺田屋騒動が起こった所である。
当時、薩摩藩には藩主の父、島津久光を中心とする公武合体を奉ずる「温和派」と勤王討幕を主流する「急進派」とのニ派があったが、久光は急進派の動きを押さえようとして、兵千名を率い京都へ入洛しようとした。
これを知った有馬新七ら三十余名の急進派同志は、薩摩藩の船宿であった寺田屋に集まった。これを知った久光は藩士八名を派遣し、新七らの計画を断念するべく説得に務めたが失敗、遂に乱闘となり新七ら七名が斬られ、二人は重傷を負い、翌日切腹した。★1866年1月23日の寺田屋遭難
京都で薩長同盟の斡旋をした坂本龍馬は長州の三吉慎蔵らと共に寺田屋に宿泊していました。深夜2時頃、寺田屋は幕府の伏見奉行によって派遣された捕り方30人ほどに取り囲まれました。
その異変にいち早く気付いたのは入浴中だった龍馬の妻・お龍でした。お龍は袷一枚を羽織るとすぐさま裏階段を2階へと駆け上がり龍馬たちに危機を知らせました。
捕り方たちは肥後守からの上意を主張し迫り、龍馬たちは奉行所の権限が及ばない薩摩藩士であると主張しましたが簡単に見破られ、龍馬は高杉晋作からもらった拳銃で防戦。2名を射殺、数名に傷を負わせますが、捕り方により拳銃を持つ手に刀傷を負いました。三吉は槍で応戦し、その隙に隣の家の壁を壊し両名は脱出に成功しました。
材木屋に隠れた二人は、薩摩藩邸に助けられ、すぐに報告を受けた西郷隆盛が軍医を派遣し薩摩藩邸で治療と警護をしました。
その後龍馬は、伏見の藩邸から二本松の藩邸に移り、再び伏見の藩邸に戻った後は西郷隆盛の勧めもあって大阪から鹿児島へ渡り、薩摩藩内で湯治しながら身を隠していました。
この時に龍馬は妻のお龍を連れており、日本で初の新婚旅行といわれています。
寺田屋〒612-8045 京都府京都市伏見区南浜町263
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